2012年5月17日~18日に3回目の高野山に行ってきました。
昨年3月に1泊2日で奈良旅行した仲間4人(暦爺4人)で高野山詣でに行きました。
小生の運転で片道約5時間の長旅でしたが、予定どおり無事に帰ってきました。 |
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弘法大師のご母堂が滞在した「女人高野・慈尊院」の
本堂です。高野山開発のベースキャンプだった所です。
現在では歩いて高野山に詣でる人達の出発点になって
います。 |
高野山の玄関 大門です。1705年に再建され重要
文化財に指定されています。夕日が美しく晴れていれば
淡路島が遠望できます。 |
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壇上伽藍 真言密教の根本道場「大塔」です。
昭和12年に再建され、内部には堂本印象の筆による
十六大菩薩などが描けています。 |
壇上伽藍 「御影堂」 宝形造りのこのお堂は、もと
大師の持佛堂でした。後に真如親王が描かれた大師
御影をお祀りしたことから「御影堂」と名付けられました。 |
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壇上伽藍 「金堂」高野山開創当時は講堂と呼ばれ、
平安時代半ばから一山の総本堂として重要な役割を
果たしてきました。平清盛が自らの額を割った血で中尊
を描かせた、通称「血曼荼羅」の模写が掲げられています。 |
総本山金剛峯寺 高野山真言宗三千余寺、信徒
約一千万人の総本山です。 |
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大師教会本部 高野山の宗教活動の中心的建物です。
大正4年に開創1100年記念事業として建立されました。 |
天徳院 加賀藩 前田家の菩提寺。我々はこの宿坊
に宿泊しました。 |
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天徳院 小堀遠州作の名園を眺めながら般若湯と精進
料理を頂きました。翌朝は勤行に参加させていただきました。 |
奥の院一の橋 弘法大師御廟に向かう参道入口で
最初に渡る橋。正式には大渡橋(おおばし)と言われて
います。 |
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奥の院参道 一の橋から弘法大師御廟まで通じる
約2キロの参道両側には、何百年も経た老杉が高く
そびえ、数十万基を越える供養塔が立ち並んでいます。 |
奥の院御廟橋 この橋を渡ると大師御廟への霊域に
入ります。これから先は写真撮影が禁止されています。 |
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奥の院弘法大師御廟 大師信仰の中心で聖陵です。
835年3月21日寅の刻、62歳で御入定されました。
4人で声を揃えて般若心経を唱えました。
(写真は金剛峯寺のパンフレットから拝借しました。) |
奥の院 水向地蔵の前で、亡父、亡母、亡長兄の戒名
を記入して戴いて供養させていただきました。前回も妻
と共に同様に供養させていただきました。 |
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霊宝館 本山と山内寺院に伝わる国宝・重要文化財
などを展示するために大正10年に建立されました。 |
女人堂 昔、高野山への入口は、高野七口(こうやなな
くち)と言われるように七つの入口があった。明治5年
女人禁制が解かれるまで、高野山に入れない女性の
為に七ヶ所に参籠所が設けられていました。現在は
不動坂口にあるこの女人堂だけが残っています。 |
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徳川家霊台 1643年三代将軍家光が建立した江戸
時代の代表的な建造物です。東照宮家康霊屋、左側には
秀忠霊屋があります。 |
刈萱堂 刈萱道心と石堂丸の悲しい物語は、現在も
伝説として言い伝えられています。石堂丸は父親を探す
為に、母を山の麓に残して高野山に一人登りました。
しかし石堂丸の帰りを待ちきれずに、母親は病死しました
。父の道心は修行中の身であるため、石堂丸を自分の
子供と知りながらも名乗りあわないまま、40年も高野山
で共に修行されたと・・・・・ |
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最後に 我が暦爺4人の雄姿をご覧あれ・・・・・
奥の院御廟橋前にて。 |
天徳院宿坊にて、庭園を眺めながら般若湯と精進料理
を楽しみました。 |